幼い頃の記憶。

 1979年2月22日 京都市北区の病院で私は生まれた。

 生まれたときの体重は3840グラム。丈夫な子で、3つ歳のはなれた兄が生まれたときと比べ、全然泣かなかった。ただ、生まれて3日ほど左目が開かなかったので目が不自由なのではと、両親は心配で仕方がなかったが、4日目には開いていてほっと胸をなでおろしたらしい。


 父はその頃、京都で着物の染色業を営んでいた。父は幼い頃、父親(つまり私の祖父)を戦争で亡くしている。生まれる直前に出征したため、顔も知らないという。ただ、ビルマから送られてきた手紙だけは何通かあり、その手紙を何度か見せてもらったことがある。早稲田の卒業証書も見せてもらった。父は会ったことのない自分の父親を誇りにしていた。手紙に書かれた字も、絵も、うまかった。自分の父親は頭のいい人で何でもできる人だったんだよと話して聞かされた。

 その後、若くして母親もなくした父は、苦労しながらも当時盛んだった染色の世界で修行を積み、ひとり立ちするに至る。昔から父は人の意見を受け入れず、頑として自分の主張を推し進める人だった。これは、染色という勘と経験がモノを言う職人の世界にいたこともあるだろうが、むしろ小さい頃から一人で何でもやってきた人だったからこその頑固さだったのかも知れない。


 一方、母は福井県の呉服店の一人娘だった。なかなか子どもができず、母親(つまり私の祖母)が40歳になる直前に、母は生まれた。念願の子どもだったので、両親は大喜びしたと言う。

 私が生まれたときは、すでに祖母しかいなかったので、私は祖父を見たことがないが、母が言うには「人とは違うハイカラな人」だったという。近所の人に何と言われようが、オシャレな着物を着て歩き、人とは違う行動をする、そんな人だったという。そして、母はそんな自分の父親のことを「かっこいい人」と言って、私に教えてくれた。「人の目を気にせずに、自分がやりたいと思ったら、人と違うことでもためらわずにやる」、そんな父親に母はあこがれていたのかも知れない。


 そんな両親のもとに生まれた私は、京都市北区の普通のマンションに両親と3つ上の兄と家族4人で暮らしていた。私が生まれたとたん、兄には弟を守るという義務感が生まれたのか、兄は幼い頃から弟への面倒見が良かったらしい。昔の写真を見ると、いつも私の隣に優しい顔をした兄が写っている。

 さすがにこの頃の記憶は、私には残っていない。ただ、1歳半の時、母親の家を継ぐため、姓を変えた。母の家系は江戸時代から続く由緒ある商人の家系であり、母は嫁いでからも自分の家系に誇りを持っていた。だから、次男である私が姓を変え、その家を継ぐことになった。それ以来、家族の中で私ひとりだけが違う姓、という少し不思議な状態となった。


 幼稚園の頃の記憶もほとんどない。覚えているのは、年長の時におしっこを我慢しすぎて、ついにおもらししてしまったこと。ただ、より記憶に残っているのは、おもらしをして恥ずかしかったことよりも、幼稚園バスから降りるなり、「あ、あんたおもらししたんでしょ!」と母親に笑われたこと。「何でお母さんはすぐにわかったんだろう」と幼い私には不思議でならなかった。考えてみれば、制服ではなくズボンだけ体操服だったから、わかって当然なのだが。とにかく、それ以来、母は私のことは何でもわかってしまう人なんだと思っていた。

 この頃から、私の憧れは兄だった。よくケンカもしたが、いつもかわいがってくれる兄を慕っていた。だから、兄がすることを私はすぐに真似た。兄と同じことをしたがった。兄が小学校の話をすると、私は早く小学校に行きたいと思った。幼稚園時代の記憶がないのは、そのせいかも知れない。


 だから、小学校入学以降は、いろいろと思い出せることがある。兄が4年生の時、1年生だった私は、しょっちゅう兄の教室に遊びに行っていた。兄のクラスメートからもかわいがられた。その頃、兄は「かっち」と呼ばれていた。だから、私は「かっちの弟」といわれた。

 そして、兄のクラスメートの弟が、私と同じクラスにいた。その子もよく私と一緒に兄の教室に遊びにいっていたから、いつの間にかその子が僕のことを「かっち」と呼ぶようになった。あまりにしつこく言うから、1年生の私のクラスでも「かっち」というあだ名が定着した。私の本名には何ら関係のないあだ名。でも、小学生の間はクラス替えがあっても誰か一緒になった友達が、私のことを「かっち」と呼び続けたので、周りのみんなも理由はわからないままに「かっち」と呼んでくれるようになった。だから、小学校の6年間、私は「かっち」という名前で呼ばれ続けた。今でも小学校の同級生は、私のことを「かっち」と呼んでくれる。


 今にして思うと、小学校1・2年のクラスは、もうすでに階層構造のようなものができていたような気がする。ケンカが一番強いのは中村くん。2番目は誰だったか忘れたが、3番目は高井くん、4番目は藤原くんだった。誰が一番強いのか、そんなケンカがしょっちゅうあり、いつの間にかこの構造ができあがっていた。

 そんな中、私は特殊な存在だった。何故かはわからないけど、「かっちは頭がいいから」という理由で、そういうケンカに巻き込まれることはなかった。同じく成績の良かった滝上くんもそうだった。一時期、藤原くんにいじめられたことがあったが、いつの間にか仲良くなり、よく彼の家の近くで一緒にドッヂボールの練習をするまでになった。この頃から、人と仲良くなるのは得意だったのかも知れないし、どんな種類の人間とでも付き合えるようになったのかも知れない。とはいえ、私にとってみれば、4人のガキ大将が少し怖い部分もあり、気兼ねなく接することができたのは、同じく頭の良かった滝上くんだった。

 成績はいつも良かった。いいのが当たり前だと物心ついたときには思っていた。これも兄の影響が大きかった。兄は何かができるようになるのが好きで、よく勉強していた。母もより兄のヤル気を引き出そうと、家でいろんな問題を出してみては、兄に解かせていた。兄はそれが面白くて、小さい頃からマジメにコツコツ勉強するタイプの人間になっていた。

 一方で私は違った。兄が小さい頃に喜んでやっていた算数の問題などは大嫌いで、母から言われてもやらなかった。だけど、ピアノと本は好きだった。兄はピアノが嫌いで2年でやめた。私はとにかく練習した。ひとつの目標があったからだ。マンションの上の階に住むカッコイイお兄ちゃん(当時6年生だった)が、「エリーゼのために」をカッコよく弾くのを聞いて、自分の絶対にあれを弾くんだ、と心に誓った。

 だから小学2年生の頃は1日2~3時間練習した。ただ、勉強のように放っておいても100点がとれるものではない。だから、1回でもミスをすると、それが許せなかった。だから練習しながらしょっちゅう泣いた。わめいた。そして、父に怒られた。「ミスするのは当たり前だろうが!そんなに泣くんだったら、もうピアノやめろ!」と。週に2回はそんな風に怒られた。でも、それでも早くできるようになりたくて、いっぱい練習した。

そうするうちに、1年半でバイエルを終了し、2年の3月にはついに「エリーゼのために」が弾けるようになった。6年生のお兄ちゃんが弾いていた曲を2年生で弾けるようになったことが誇らしかった。ただ、その目標を達成したことで、ピアノに対する熱は次第に冷めていき、それ以降泣いてピアノの練習をすることはなくなった。

その一方で、本を読む時間が増えた。自転車で15分かかる京都市北図書館に2週間おきに通った。一度に一人3冊借りることができる。だが、3冊では物足りなかったので、家族全員分の貸し出しカードを持って、12冊借りてくるのが習慣になった。いつも本がそばにあった。本を読むのが好きだった。中でも寺村輝男さん(記憶が定かでないが)の「王様と~」といったシリーズが好きで全巻読んだ。2年生にしてはよく読んだものだと思う。


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